越後妻有郷の物乞い文化 アートと地域について考える

岡本マサヒロ(ココルーム)

新潟県の南端部、長野との県境に位置する越後妻有郷は、日本でも有数の豪雪地帯である。そして現在では、国際的なアートフェスティバル「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」が開催地としても知られている。その芸術祭が開かれるようになったのは2000年からであるが、いまから20年余り前、民俗学に関心をもっていた私はこの地域を歩いたことがある。私が働くココルームでは、「アートと地域」というテーマの探究をひとつの目的として、「OCA! 大阪コミュニティアート」を実施してきた。アートが地域とどうかかわるかという問題は、現在では馴染みのあるフレーズになってはいるが、その意味する内容は曖昧である。本稿では、民俗採訪で歩いた妻有郷で聞いた話を事例として、この問題について考えてみたい。

1980年代半ばから数度にわたって妻有郷(旧東頸城郡松代町・松之山町、中魚沼郡津南町など)の諸集落を訪問して、私がもっとも興味をもったのはクァンジン(勧進)の話であった。勧進といえば歌舞伎の勧進帳が有名であるが、もともとは寺院や仏像を再建・修復するために浄財の寄付を集めて回ること、あるいはそのような行為をする人を意味した。しかし、妻有郷では少し違ったニュアンスで用いられ、いわゆる物乞いのことを勧進と呼んでいた。

現在の妻有郷はコメどころとしても有名であるが、水田が拡大したのは近年のことであり、それまでは畑作が主流の土地であった。かつては飢饉に陥ることもしばしばあり、口減らしも兼ねて他地域に農作業の手伝いや出稼ぎに行くこともあったようである。また逆に、周辺地域から食糧を求めて来た人びとを受け入れることもあった。松代や松之山では、そのような物乞いに来る人びとのことを勧進と呼んでいた。勧進が頻繁に来ていたのは昭和30年代頃までであったというが、当時のことを覚えている人に訊ねると、その多くが懐かしそうに勧進について語ってくれたことを想い出す。

松代や松之山では、単に食べ物やお金をもらうだけでなく、その返礼として何かしたり置いていったりする勧進も多かったようだ。人びとの会話にもっともよくあげられた勧進は、返礼として屏風や掛け軸などに絵を描いていったクァンジン・エッチンという名で呼ばれた勧進である。また、草鞋を編んで置いていく勧進や歌をうたう勧進、さらには観音像を背負いそれを拝んでもらう勧進などもいたという。妻有郷の村々を巡った物乞いは、芸達者が多かったようである。この地域において物乞いは決して忌み嫌うだけの存在ではなく、歓待すべき存在でもあったのである。

妻有郷の人びとが担った物乞い文化は、芸能、あるいはアートと深く結びついていたということができる。農業を専業とする人びとが物乞いの旅にでたときに、芸人=アーティストとしての側面を前面にだしてくる。それゆえに、物乞いを受け入れる側も、寛容な態度で彼らを受け入れることができたのだと考えられる。そしてまた、こうした二者の関係は、「生きるために食べる」という、人間にとってきわめて根源的な課題である生計維持の問題とも密接に繋がっていたことを指摘しておきたい。高度経済成長期以前の日本の村社会において、アートとは地域の暮らしと強く結びついた生きる術であったのである。