■リンク1「生きる術(すべ)の公共性」

森田 博一((株)シティコード研究所代表、(特活)市民活動センター神戸副理事長)

生きるということは、ままならない。身すぎ世すぎのために、心ならずも面白くない職業生活に明け暮れなければならないことがある。グローバリゼーションとやらのせいなのか、何をするにも複雑なルールや取り決めに個人がしばられることも増えてきた。そういうことの積み重ねで、人生のあらかたが埋められてしまう。だから人は自分自身をみつめ、自分を表現したくなる。 アートとは「表現を通じて自立的主体としての自分を確認する作業」と考える。だから「芸術というのは生きる術(すべ)」「生きている人はみんな表現している」(上田假奈代さん*)ということができる。 「自立的主体としての表現活動」というアートの捉えかたは、堀田善衛氏によれば絵画ではゴヤ(1763年生まれ)に始まる。音楽ではたぶんベートーベン(1770年生まれ)あたりに始まる。 それまでは、つまり18世紀後半ごろまでは、画家とは、王族や貴族の肖像を描く人のことであった。音楽家とは、王族や貴族に対して伴奏やBGMを提供する人のことであった。閉ざされた一握りの同質集団にかしずいて、描かされ、演奏させられていた。 これに対し、ゴヤやベートーベンは作者としての立場で「表現」を始めた。このことによって、その作品は、特定の人物や集団に“納品”されるのではなく、不特定の人びとに対して問うものとなり、不特定の人びとに対して開かれたものとなった。ここに、アートと公共性とが関係づけられる条件があらわれた。 ところで、あるサービスに公共性がある、ということはどういうことを指すのか。 一には、不特定のだれもが等し並みにその利益を享受できるということ。国家レベルでは防衛や外交などがそれにあたる。コミュニティレベルなら、公園でおこなわれるイベントなどが該当するだろう。 第二には、社会に生きるすべての人びとが尊厳をもって自立的に生きるために支援することも、公共性があるものとして認めることができる。障がい者の社会参画を助けること、あるいは失業者の就労を支援することがこれにあたるだろう。 これらのサービスは、障がいをもつ人、職を失った人など、特定の人に提供されるものだから、「不特定のだれもが等し並みにその利益を享受できる」という、第一にあげた公共性の定義には一見あてはまらない。だが、このサービスは障がいのある人や職を失った人――社会的に排除されがちな人びと――が第一の「不特定の人びと」――すでに社会の内部にいる人びと――と同列になるためのものであると考えることができる。つまり、第一の公共性を実現するための条件を整備することであるから、特定の人に対するサービスであっても、その公共性は認められる。「不特定の人びと」の集合とは「社会」にほかならず、障がい者や失業者がしっかりと社会の中で位置づけられるというソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)の公共的意義はここにある。 障がいのある人や職を失った人に対しては、これまでに行政による手がさしのべられてきた。ただ、その支援は、介護・介助サービスの提供、まちのバリアフリー化、就業情報の提供やマッチング、あるいは経済的補償など、「障がい」や「失業」などの現象に対して直接的に働きかけるサービスであった。 これらの支援が無益である、とはいわない。しかし、必要な支援はそれだけか。 障がいを持つことによるもどかしさ、職を得ることができないことによる自尊心の崩壊は、バリアフリー化や就業情報の紹介によって償われるものではない。これまでの行政による物理的・直接的な支援と並んで、精神的・内面的な支援が必要だ。その時、アートは、「表現を通じて自立的主体としての自分を確認する作業」として重要な役割を果たすだろう。 フェスティバルゲートの公共的意義を問う今回のコンペに対して、フェスゲに入居するNPOたちが中心になってまとめた提案のテーマは「ソーシャル・インクルージョン」と「アート」である。ここに集う人びとが「生きる術」を得てエンパワメントし、つながり、フェスゲの外にあふれ出て、まちがエンパワメントする。そんな「未来計画」を夢想する。 *:「新世界アーツパーク未来計画 第3回シンポジウム」における発言 * 森田 博一(もりた ひろかず) 産業計画、文化振興ビジョンなどのプランづくりにたずさわってきた。なのに「計画」の意味に疑問を抱き、問い直してきたところが阪神・淡路大震災。以来、計画屋のかたわら、NPOの支援やコミュニティ・ビジネスのアドバイスにもいろいろとコミット。今回の原稿は「公共性」と「計画」の2つのテーマでの執筆を構想していたが、計画性のない文章展開のために「計画」のほうはあえなくサドン・デス。阿倍野区生まれ、豊中育ち、神戸住まい。